日本人の証明

翌日私たちは、市内に住むハオばあちゃんを訪問しました。彼女のおじいちゃんが富士見村から満蒙開拓団の一員として、木蘭というハルビン郊外の村に入植したという人です。

終戦時3歳で、父親はすでに死亡、母親と生き別れになって、中国人の養父母に育てられたという人ですが、聞けば聞くほど複雑数奇な生い立ちの持ち主で、自分が日本人であることをほんとうに確信したのは、1982年に、母親が日本から会いに来たときだそうです。

ただ、その後にお母さんは日本で亡くなってしまい、日本政府は、現在でもハオさんを日本人残留孤児とは認定していないようです。



ハオさんの記憶はとてもはっきりしていて、子どもの頃の写真や、お母さんが書いた証書など、いろいろな“証拠品”が残っているのに、政府がなぜ認定しないのかはわかりません。

こういった“未認定残留孤児”といわれる人たちもかなりの数にのぼり、日本人弁護士などが一緒になって活動しているようですが、日本政府も彼らの命がある間に、的確な判断をしてほしいと思います。


それでもハオばあちゃんは、ときどき涙ぐんだりしましたが、まだまだ若くて元気。息子さんたちに支えられて、現在の生活も十分に豊かそうでした。

“日本人残留孤児”の問題は、とりわけ長野県に暮らす生徒たちにとっては決して別世界の出来事ではありません。今現在もこうやって“日本人の証明”を求めている人がいるということを、はるばるこの地までやってきて、直接自分たちの目と耳で知ることができたというのは、貴重な経験になったことと思います。