国境を越える旅第2弾 その6

ワット・プノンに行った日の午後、トゥールスレン虐殺博物館を訪れました。1975年4月、ポルポト軍がプノンペンに入城して民主カンプチア政権が成立して以降、3年半の間に100万とも200万ともいわれる同胞が無残に虐殺された暗黒の現代史を後世に伝えるための施設です。


ここはかつて高等学校の建物でしたが、“政治犯収容所”として、14,000〜20,000人ほどが収容され、尋問、拷問を受けて後、処刑場(キリングフィールド)へと送られていったところです。現在わかっている生存者はわずか8名といわれています。

カンボジア内戦クメール・ルージュというのは、生徒たちからはあまりに遠い世界ではありますが、カンボジアを訪れる以上、避けては通れない問題だと思っています。この施設には40か国語以上の音声ガイドが整っていて、生徒たちはひとりひとりイヤホンを耳に施設内を回りました。凄惨な写真も多く、途中でリタイアする人が出るかもしれないと思っていたのですが、2時間ほどもかけて、みなしっかりと向き合ってくれたようです。

単に、クメール・ルージュが酷かった、ポルポトの狂気だったということではなく、あの時代の世界の流れの中で、なぜ?誰が?このカンボジアの悲劇を生みだしたのかを、この先もずっと考え続けてゆきたいと思っています。

そして夜は、同行してくれているブンティの話を聞く場を設けました。それまで生徒にはいってなかったのですが、実は彼のおじいさんは、当時プノンペン共同通信社で働いていた人で、“キリングフィールド”から奇跡の生還を遂げ、後に孫のブンティと共にカンボジア難民として来日した人だったのです。その時8歳だったブンティは、当時の戦乱や飢餓も記憶の中にあり、銃口を突き付けられ死を覚悟したこともあったそうです。おばあちゃんがパンツの紐に隠してくれた金の鎖を資金としてタイ領まで逃れ、空路バンコクから成田に到着したのです。

以降もさまざまな困難を乗り越え、20年ほど前にカンボジアに戻り、今こうやってむつみの生徒たちと、楽しく笑い転げながら旅を続けているという現実が、生徒たちに強烈な印象を与えたことは間違いないでしょう。