撫順下見旅 その10

私が撫順を訪れたのは3月の初めで、まだまだ“尖閣問題”が炎と燃え盛っていた時期でした。私が最初に「ちょっと意外なことの連続」と書いたのは、こういう時期だったのにもかかわらず、実は“反日”を感じさせるものに一度も出会わなかったからです。それどころか、于さんでも徐さんでも、まったく偶然出会った、何の利害関係もない人たちですが、日本人が作った道路がいかに走り易いか、日本人が造った建物がいかに安心して住めるか、口を揃えて誉めたのです。

ただ、そういう会話が始まるにはひとつの条件があって、私という日本人が、先の日中戦争に関しておおむねどのような価値観を持っているのか、ということが重要になります。中国人は、とにかく初対面の人にでも遠慮会釈なくいろいろ質問をしたがる人たちで、私がこんなに長い間中国で何をやっているのかということがまず最初の話題となります。そしてごく簡単に状況を説明すれば、あの戦争は、日本が中国を侵略したものである、というふうに私は考えているということが相手に伝わり、それでまず彼らの心はぱっーと開けてくるのです。特につらつらと意見を述べたてるといったようなことではありません。

私が初めて中国の地を踏んだのは、今から17、8年も前ですが、今回と同じく東北地方を訪れました。そしてハルビンまで足を延ばしてぶったまげたことがあるのですが、あの731部隊http://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A)の残されていた研究棟が、なんと、高等学校の施設として使用され、当時は高い塀が張り巡らされて、部外者は近づけなかった中庭で、生徒たちはバスケットボールに興じていたのです(現在は資料館として整備されている)。

初めての中国で、このフレキシィビリィティの“極致”を目撃した私は、以来、「中国人はとてもフレキシブルな人たちである」という認識の下に常々行動しています。関東軍総司令部や警察署本部や満鉄病院や、諸々の頑強で瀟洒な建物が、そのまま共産党本部になったり、大銀行の本店になったり、中国人民の保養施設に生まれ変わるのは、まったく不思議なことではないのです。

かつての“満鉄の技術”は、侵略の証として取り壊されたのではなく、最新の技術と膨大な資本が投下された利用価値の高いものとして、そのまま中国の人々の生活の中にすんなり溶け込んでいったのです。もちろん、だからといって、侵略戦争に一点の理を認めるものではありません。それとこれとは別のことなのです。そのことを私は今回の撫順下見旅で、数々の“遺構”を眺めながら、あらためて思い知らされました。

翻って、山の分校がある黄土高原の辺鄙な市町村でも、バス道まで行くと、今でも「打倒日本!」というスローガンを時々見かけますが、私の顔を見れば、キャノンのカメラからカシオの腕時計、シャーペンの芯から、スーパーのビニール袋に至るまで、日本製は品質がいいからと、みんな口々に欲しがるのです。

普段は村に住んでいない若い村長さんは、尖閣問題で私に突っ込んで来ましたが、彼の愛車はPRADOです。そして村の共産党の書記なる人から、つい先日も「今度日本に帰ったらお札持ってきてね、集めてるから」と、1000円札の両替を頼まれているのです。

たとえ“日本が嫌い”だったとしても、“日本製品は大好き”なのです。この大いなるフレキシィビィリィティを理解せずして、“反日行動”や“反日教育”を云々することは、およそ実態からかけ離れているのではないかと私は思っています。

昨今のメディア市場では、“反日”“嫌中”の2文字が氾濫しているようですが、日本に来たこともない、日本人と話したこともない中国人の“反日”や、同じく中国に行ったこともない、中国人の知り合いがいるわけでもない日本人の“嫌中”とはいったい何なのか?

地球が教室のテラ・スコラの旅では、現地まで足を伸ばし、撫順の風にふかれて、中国の“庶民”の顔を見ながら、おいしい中華料理も食べつつ、みんなで考えてみたいと思っています。(この項おわり)