重い“後日談”その4 方正地区日本人公墓

田さんから最初のメールが届いたとき、まだ天理教団とは連絡が取れていなかったころから、「もし日本人の遺骨が出てきたら選択肢は2つ。ひとつは日本に持ち帰る。もうひとつは、<方正地区日本人公墓>に弔う」という意見が、ハルビン側では大勢をしめていたようです。

方正というのは、ハルビン市街から東に180キロほどの距離にあり、ここはソ連軍の参戦により、多くの開拓民がハルビンをめざして逃げてきた中継地にあたります。関東軍は自国民を守るどころかさっさと先に逃げてしまい、老人女子どもを伴った開拓民の凄惨な逃避行の末、疲労と飢えと寒さで4,500人という人々がこの地で亡くなりました。

戦後になって、“残留女性”だった人が、累々たる同胞の屍の山を見て、なんとか弔いたいと地方政府に願い出たのです。それが時の首相周恩来にまで届き、開拓民も日本軍国主義の犠牲者である、という考えから、中国政府によって日本人公墓が建立されたのです。まだ日中の国交が回復されていない1963年のことでした。

当時はまだまだ中国は貧しく、食べるだけで精一杯だったと思いますが、多くの人手をかけ、松花江の増水を待って墓石を船に乗せて運び、日本の埋葬の形式や習慣を調べて、中国人の手によって手厚く葬られたのです。石碑は、生きて再び帰ることができなかった日本の方角に向けて建てられています。

たくさんの遺骨を日本に持ち帰るのはたいへんなことだから、方正に葬るのが現実的ではないかと私も思ってはいました。ただし、その後の教団とのやりとりの中で、教団側としてはその考えはないということのようです。

実は、「方正地区日本人公墓」を守り、伝える活動をしている「方正友好交流の会」というグループがあって、毎年慰霊の旅を続けているのですが、今年は6月23日だそうです。それで、私にも行かないかというお誘いのメールが届いているのですが、ちょうど私の帰国の時期と重なってしまい、残念ながら参加できませんでした。

今年のテラ・スコラの旅がどういったコースを取るのか、それも帰国してから詳細をつめなければならないのですが、日本一開拓民を“満州”の地に送り込んだ長野県にある学校として、この問題はこれからも考え続けてゆかねばならないと思っています。

後になって、教団の方から、「遺骨収集の件は厚労省にまかせた。現在は政府からの連絡を待っているところである」というメールが届きました。日本政府と中国政府間の交渉ということになったわけです。日中戦争時の800体の遺骨の収集、というのは、国家間の交渉に委ねた場合、そんなに簡単なことではないと思いますが、すでに私たち一般人の手の届かないところに行ってしまったということです。いまはただ、1日も早く解決の日が来ることを祈るばかりです。