重い“後日談”その3 今も極寒の地に眠る……

天理教団には、「旧満州天理村事務所」というのがあるそうで、その関係者と遺族の方々でいろいろ話し合いが持たれたようです。戦後65年も経ってからの突然の話で、みなさんきっと困惑されたことでしょう。“動きが鈍かった”のも当然のことだと思われます。ところが中国側、つまり田さんと石さんの方は積極的で、とにかく長い間放置されてきている遺骨を、なんとか弔ってあげたいという気持ちで、一生懸命追加情報を集めてくれたのです。

そこで田さんから、今も天理村に住む、64歳の王さんという男性に話を聞いてきたという連絡が入りました。王さんは以前、“残留女性”であったTさんという人の家族と、アパートの同じ部屋を2つに分けて住んでいたという間柄で、当時のことは彼女からいろいろ聞いていたそうです。彼女が“残留女性”となったのは、天理村の人たちが集団で日本に帰国するそのときに、中国人の友達の家に遊びに行っていて、置いてきぼりにされたからだそうで、それほどに差し迫った緊迫状況の中で引揚げが始まったということでしょう。

王さんは記憶のはっきりした人で、後にTさんが日本に永住帰国したのは、73年の3月4日ときちんと覚えています。Tさんは、その後も別の日本人と一緒に毎年のように天理村にやって来ていたようですが、最近は姿を見ないそうです。

そのTさんが、当地で“万人坑”とも呼ばれている大きな穴には、800人くらいが埋められているはずだと、王さんには話していたそうです。

私たちが周老人を訪ねたとき、彼は、「たくさんの日本人が亡くなって、次々穴に放り込まれるのを見た」といっていましたが、「たくさんの人」とはいったい何人くらいだろうかと、漠然と思いを馳せてはいました。冬には氷点下30℃にもなるという極寒の地で、65年もの長い間、なぜ彼らは放置されたままだったのか?その遺体が「800体」という数字を聞いて、私は返す言葉を失いました。