重い“後日談”その1  一通のメール

昨年のテラ・スコラ中国の旅が終わってすでに8ヶ月がたっていますが、実はこの間、直接の関係者を除いては知られていない、“後日談”があったのです。ことが「満蒙開拓団員の遺骨」という、とても大きな問題だったし、その遺族の方々も一部特定できる状況だったので、私はここに書くのをずっと差し控えてきました。

ところが、しばらく前にハルビンの方から、5月1日の読売新聞に掲載されたという連絡をもらい、つい一昨日、そのコピーも送られてきました。今回の事態が起こるきっかけとなったのは、昨年のテラ・スコラ中国の旅であることは間違いないので、これからその具体的ないきさつについて公表しようと思います。(2月26日にアップしている「天理村」を参照)

旅が終わって1ヶ月ほどたった11月2日、お世話になったハルビン旅行社の田さんからメールが届きました。

私たちが訪れたハルビン郊外の「天理村」で、来春には観光開発が開始されるが、予定地を掘れば日本人の骨が出てくる可能性が高い。出てきたらどうしたらいいか、ハルビンで“残留孤児”の養父母のケアをしている石さんという人と話し合っているが、私の意見を聞かせてほしい。というものでした。

私たちが訪れたときに訪問した周老人から、戦争が終わってから日本に引き揚げるまでの1年ほどの間に、多くの開拓民が餓えと寒さのために亡くなったという話は聞いていました。大きな穴に次々遺体が投げ込まれるのを見たという話も聞きました。今回開発が予定されているのは、その穴ではなく、実はもう一ヵ所日本人が埋められた場所があるというのです。

これはもう私の意見というレベルではないので、日本の友人を介して、奈良にある天理教団本部に直接連絡を入れることにしました。そして、教団の担当者の方と、田さん石さんと、私との間でメールのやりとりが始まったのです。

*写真は記事とは関係ありません。山の分校の風景です。