3つ目の課題

そもそも私がなぜ、こんな黄土高原の片隅の“地図にもない”僻村に住んでいるのかというと、それはこの村の歴史と大きく関わります。近隣の村々でも、誰もが知っている有名な事件ですが、賀家湾村は、一夜にして274人の住民が日本軍に惨殺されたという歴史を持つ村なのです。

1943年冬、日本軍が来たという情報を聞いて、村の中央部にあった小学校の教室に多くの村人が逃げ込みました。教室の奥から2.5キロほどの地下トンネルが掘られていて、そこを通って、裏山から隣村に逃げることができたからです。ところがその中に7人の民兵(正式な兵士ではなく、連絡員などとして志願した農民兵)が混じっていたため、日本軍はトンネルの出口を塞ぎ、入り口に石炭と綿花と唐辛子を積み上げて、一晩中燃やし続けたのです。日本軍は翌朝には村を去りました。生き残った村人の最初の仕事は、見るに耐えない無残な姿に変わり果てた同胞たちの遺体を、トンネルから引き出すことだったのです。

私がこの事件のことを知ったのは、随分早い時期でしたが、そのときから、なんとか「この村に住んで」、老人たちから当時の記憶を聞き取る作業を続けたいと思っていました。それは容易なことではありませんでしたが、けっきょく2008年6月、思いかなって村に引越し、以来2年間、私は村人たちと生活を共にし、70歳以上の老人のほぼすべてから彼らの記憶を聞き取りました。人口移動が少ない村なので、今でもほとんどの村人が、親族の誰かを日本人に殺されたという歴史を持つ人たちです。

この写真の右側のヤオトンは、3人の生徒たちがお世話になった賀さんの家です。そして、塀を挟んだ左側が事件があったかつての小学校です。ここにお世話になることになったのは単なる偶然で、村人たちがたまっていたところで、私が「誰かウチの生徒たちを泊めてくれない?」と声をかけると「ウチに一部屋空いているからいいよ」とすぐに返事が返ってきたのがこの家だったのです。

私は、この事件のことは、みんなが帰る日の前日に伝えました。彼女たちがまず感じたことは、「えっ?そんな事件があったのに、なぜみんなあんなに優しいの?」という素朴で、当然ともいえる疑問だったことでしょう。私が最初に感じた“疑問”もまったく同じでした。

この3つ目の課題に対しては、私自身もまだまだこれが「答」、といえるものはありません。だから、その答を求めて、これからも賀家湾暮らしは続くことでしょう。テラ・スコラ山の分校も、私がいる限りは存続します。

“教室”の門の左側(7月7日付け2枚目の写真)には、当時逃げようとしていた村人を狙って発砲された銃弾痕が今もはっきり残っています。そんな“教室”で数日間を過ごした生徒たちは、すでに日本に帰ったわけですが、この3つ目の課題に関しては、ゆっくり時間をかけて、彼らなりの答を求めて、考え続けていってほしいと思っています。

生徒たちがいる間中、付きっきりで面倒を見てくれたこの家のおばちゃんとぼうや。思いっきり笑顔が素敵な2人です。

(7月16日)